山梨における電気裏業の始まり

出典 やまなし 別冊 山梨と電気事業 東京電力から

この資料は東京電力の広報から転載した。特に山梨の発電の歴史を学習することができる。



1 先進国と期を同じくした創業

 世界で初めての電気事業は,アメリカのエジソン電気会社によるもので1882年(明治15年)には世界初の電灯供給を開始している。
 日本においては,明治11年3月25日(1878年に東京虎の門の工部大学(後の東京大学工学部)で開催された中央電信局の開局式でエルトン教授の手で点火されたアーク灯が初めての電灯点火である。
 それから5年たった明治16年には大倉喜八郎,矢嶋作郎らによって日本では初めての電灯会社が創立され,東京電灯・株式会社と命名された。
 同19年(1886年)に開業。翌20年に移動式発電機によって鹿鳴館に白熱電球が点灯された。これが営業用供給の始まっであった。
 次いで同年(1887年)11月には,日本橋電灯局(石炭火力発電所)が完成し,東京郵便局やその他一般の需要家に供給を開始した。
 エジソン電気会社に遅れること5年,日本における電気事業の創業は世界的にも相当早かった事になる。

甲州財閥の東京電灯への経営参画2 

 明治29年,それまで横浜開港に乗じ蓄財を重ねていたいわゆる甲州財閥20余名は,電気事業の洋々たる将来性に着目し,若尾逸平の号令のもと、足並みを揃えて当時経営難にあえいでいた東京電灯の株買い占めに走った。そして、若尾逸平の大番頭佐竹作太郎がまず常務として入った。これが当時,世に言われたところの甲州財閥の「東電乗っ取り」である。
 甲州財閥が経営参画してからの東京電灯の歴史は,合併,併含の歴史であっり,競争会社が現われれば片っ端からこれを買収または合併するという一流の積極主義を推し進め,折りからの電力需要倍増時代にあわせ供給区域も東京を中心にして関東一円に及ぶ未曽有の巨大企業への成長を続けた。

3.駒橋発電所と大送電時代の幕開け

 明治30年代は,日清・日露戦争の勃発で石炭が暴騰し,それまで石炭火力が主であった電気会社各社に大きな打撃を与えていた。
 そこで,当時の東京電灯社長佐竹作太郎は大水力発電に着自し,広く近県の水利を勉強し,富士山からの豊富な水量で,年間をとおして安定して取水できる桂川に,明治40年12月総工費590万円を投じて駒橋水力発電所(当時15,000KW)を建設した。




これが今もある駒橋発電所で,大水カ発電所のはじめであった。
 ここで作られた電気は,早稲田まで80kmの山河を越えて高圧送電(55,000V)され,初めて東京に水力発電の灯をともしたが,当時としてはその発電容量,高電圧・長距離送電の技術は画期的なものであった。
 続いて東京電灯は明治44年,駒橋の下流に八ツ沢発電所(35,000kw)を建設した。これが電カの長距離大容量送電の幕開けとなり,全国に大容量水カ発電事業を続出させ,ひいては大正時代における大送電網建設の素地を作るに至り,以来,水主火従の時代が戦後まで続くのである。
 この駒橋,八ッ沢水カ発電による発電原価の低下に伴う電気料金の値下げで,東京電灯ほ競争会社の合併吸収が可能となり,またその後の電力需要増加は著しく,余剰電カも1ケ年の増加需要を満たすにすぎなかった。

4.甲府電力と県内電気事業
 
 山梨県における,電気事業のはじまり
 
 ところで山梨県における電気事業発祥の歴史を見ると,明治33年5月10日,甲府電カによって出カ100kw,100サイクルの芦川第一発電所から電気が供給され,甲府や市川大門町の電灯をともしたことによって始まっている。この芦川第一発電所は,日本では第三番自の営業用水カ発電所という古い歴史を持っているが,そのいきさつをざぐってみると,秋山喜蔵の名が浮かびあがってくる。秋山喜蔵(1864年−1932年・市川大門生)は東京電灯の発足や,京都の水力発電に刺激され,明治25年(28才)頃から発電事業の計画を練り始め,県内のいくつかの河川を視察してまわっていた。当時,精進湖に遊んでいたイギリス人牧師が芦川を下った時,この川は発電に最適だと市川大門村の有力者であった秋山喜蔵に薦めたことから,芦川発電所が出来上ったという伝説が残っている。
 
 甲府電カの発足
 
 明治26年当時,山梨においては荒川に発電所を建設しようとする荒川派と,甲府電力の芦川派があった。荒川派は,佐竹作太郎の「小県に2つの発電計画は不利」との説得もあって,願書を取下げ,新規の電灯会社の設立を取やめて,すでに事業も軌道に乗りかかった東京電灯に,若尾逸平の号令で乗っ取りをかけた。明治29年のことである。
 一方,芦川派は明治30年の11月逓信省の仮営業許可を得て,甲府電力会社の創立に踏み切ったが,創立委員は秋山喜蔵ら五氏であった。
 こうして甲府電力は明治31年1月に創立され,2年後の33年5月10日,市川大門の町制施行にあわせ完成した芦川第一発電所から甲府と市川大門に初めて電気が送られた。   最初の頃につけられた電灯の数は,甲府が882灯,市川大門が770灯あまりといわれている。
 甲府電力株式会社の社長に就任した秋山書蔵は,その後,逐次事業を拡大し,
 明治37年芦川第二発電所(200KW),
    44年芦川第三発電所(360KW)を建設,
つづいて
 大正に入り初鹿野発電所(1000KW),
 柏尾発電所(1500KW),
 石和火力発電所(1,000KW),
 昭和に入り御岳発電所(3,600KW)を建設し,甲府を中心とする国中地方の電力を支配していった。

 事業の形態
 
 山梨の電気事業は大別して3つの事業形態に分けることができる。
 第一は,中小規模の水・火力発電所によって,或いは大発送電型企業の局配をうけ,それの供給カに応じた地域を供給エリアとした地域ブロック型企業である。
 その典型は,甲府電力(明治33年設立,国中地方供給),
         峡西電力(明治44年設立,峡西地方供給),
         宮川電灯(大正2年設立,郡内地方供給),
         都留電灯(大正3年設立,郡内地が供給),
         桂電灯(大正4年設立,郡内地方供給),
         駒電力(大正10年設立,峡北地方供給)などである。

 甲府電力は,甲府市を中心とする商工業,
 峡西電力・駒電力は,峡西・峡北の農業地帯,
 宮川・都留・桂電灯は,郡内機業を
 中心としていずれも地域の産業,文化に大きく寄与した。

 峡西電力は,昭和11年,県内誘致工場第l号として東洋カーボン(300KW)を小笠原に誘故したりした。そして自らもその位置を定着し,合併,併含の激しい競争の中で,昭和17年の配電統制令による関東配電への統合まで,それぞれ生きぬいた。この中で甲府電力は,比較的規模も大きく,給料もよく経営も充実していたので,東京電灯と対等合併し,関東配電山梨支店の母胎となった。
 
 第二は,大規模水力発電所を建設し,大量生産によるコスト低滅をはかり,需要地の東京,京浜地区へ長距離送電する大容量発送電型の企業である。
 その代表的なものは,前述の東京電灯で,大規模かつ弱肉強食の私企業的色彩が強い。この大容量送電により,電灯料は値下がりし,需要は署しく伸びていったが,同業者間の競争は激烈を極めた。若尾につづいて,雨宮敬次郎,小野金六らも桂川電カをおこし,大正2年に鹿留発電所(当時16,800KW),大正6年に谷村発電所(当時13,500kw)を建設して,東京方面へ送電したが,やがて東京電灯に併合された。(郡内地方は,東京電灯系企業の局配によって電カをうけている)。
 また,東邦電力社長松永安左ヱ門等によって開発された早川第三発電所(昭和元年,当時、6600KW),田代川第一発電所(同2年,当時16、700KW)博?坪発電所(大正12年、当時20,000KW‐現早川第一発電所)など早川電力もこの型に入る。(身延など県南地方は,これら早川電力系企業の局配により供給された。)そしてこれら大発送電型事業は,この他,田辺七六らの作った釜無川第一.第二発電所,また小武川第三・第四発電所,笛吹水系各発電所なども合わせ,東京・京浜地区へ送電し総量は約18万KWと,県内発電力の80数パーセントを占めた。これらによって,山梨県は水力発電県としての名声を馳せたのである。

第三は,民生需要を主とする地域自給自足型の事業で,公営,小規模が多く,鷲宿水力電灯,道志電力,穂坂村営,谷村町営などがあり,昭和11年まで存続した。

5 大電カの争覇と早川開発

 5大電力への集約

 大正3年に勃発した第一次世界大戦は,その後のわが国経済界に大きな影響を与え,各種産業の発展を促し,電力需要は急激な増加を続けた。一方,戦争によって炭価は高騰し,火カ発電原価が上昇したため,各地に水カ開発が計画され,新たに水カ電気事業会社の設立が続出した。しかも長距離高圧送電の技術が進歩したため,需要地を遠く離れた山岳地帯の豊富な水力資源を開発し,大水力発電所を建設する傾向が顕著となり,大規模発電,大送電時代が出現した。こうした大規模水力発電所,大容量送電線の建設は,これに伴う過剰電力の売込み競争の激化につながり,必然的に大資本を擁する電気事業会社の進出を促すことになり,弱小電気事業会社の合併・併含が続出した。こうして当時一般に5大電力と称された東京電灯,東邦電カ,大同電力,日本電カ,宇治川電気の大電力会社が覇を競うこととなった。

 早川開発

 中部地方を地盤にする東邦電カの社長松永安左ヱ門は,関東大震災後の帝都復興をすみやかに図り,電力供給を充実するため,その頃日本における電力需要の最大市場である京浜工業地帯に事業進出を試みた。東京電灯の地盤へのなぐりこみである。その手段が早川開発であった。
 彼はその大担かつ覇釆に富む性格と卓抜なアイデアを生かし,転付峠に密かに穴をあけ(やがて判って補償間題に発展したのだが)大井川の上流田代川の水を流域変更して早川の上流に切り落とした。当時,落差としては世界的な高落差の田代川第一(約350m),田代川第二(約500m)発電所はこうして生まれたが,更に博坪発電所(現在の早川第一発電所)を建設した早川電力を合併して子会社を設立し,東京電灯に対抗する意味で東京電力と命名し,田代送電線で静岡を迂回しながら京浜地方へ電力を売り込んだのである。このなぐりこみも,その後昭和2年に始まった金融恐慌による産業界の沈滞,電力需要の漸減,東京電灯のまきかえし(東邦電力の本拠名古屋への供給権確保)などで,これ以上泥仕合を継続することは両社の経営をも危うくする恐れがあった。そのため財界筋の斡旋もあり,昭和3年,東京電灯と東京電カは合併し,東邦電力の子会社東京電カは解散した。

6 甲信幹線と天竜東幹線
 前述のように,大規模水力・大容量送電が可能になり,各地に卸売電力会社が設立され、各社は電力の最大市場である京浜工業地帯へ向かって売り込みに狂奔した。このうち,長野県梓川水系の龍島発電所などを開発し,その発生電力を京浜地帯に売り込もうという会社があった。横浜電気の子会社京浜電カ会社である。この京浜電力が大正12年に建設した京浜送電線が現在の甲信幹線である。この時採用した送電電圧15万4千Vは,当時わが国としては画期的な高電圧送電であった。しかしながら,京浜電力は設備が完成したとたん大正14年に東京電灯に合併されたため,京浜送電線は東京電灯の設備となり,甲信幹線と命名ざれ,釜無川第一,第二,第三,小武川第三,第四の各発電所の発生電力もあわせ,この送電線を通して京浜方面へ送電されることとなった。一方,5大電力の一つであった大同電力(関西系)も,天竜川,木曽川など中部日本の水力電気を京都,大阪方面に送電していたが,これを京浜地帯にも供給すべく,大同電力東京送電線を昭和5年に完成させた。これが現在の天竜東幹線である。これは長野県内から山梨県を通過するまでは東京電灯の京浜線とほとんど同じルートで建設されているが,北巨摩郡日野春地点で釜無川第二発電所を経て甲信幹線と連絡していた。両送電線とも建設当時は単に県内通過線にすぎなかったが,山梨県が電カ輸入県になって以降現在は,この2つの送電線が山梨県供給電源用の大動脈となっている。

7 国家統制時代と苦難時代
 昭和6年9月,軍部の暴走から起った満州事変を転機として,わが国は戦時体制にはいった。やがて昭和12年7月,しな事変の勃発を契機に,ついに準戦時体制から完全に、戦時体制に移り,国家社会主義思想の台頭とともに,経済統制は飛躍的に強化され,電気事業もまたこの中に織り込まれることとなった。こうして電カ国家管理案が登場し,激しい反対論があったにもかかわらずついに昭和13年,第73帝国議含において電力管理法,日本発送電抹式会社法が成立した。
電力の生産,配給を合埋化するには,電気事業の発送電部門と配電・管業部門を分離し,前者は全国一社が妥当であるという意見であった。これにより,昭和14年4月l日,東京電灯をはじめとする33業者が主要な発送変電設備を要員ごと出資し,全国一社の「電力卸売会社である日本発送電株式会社が発足した。山梨では東京電灯の駒橋,八ッ沢を始めとする桂川系水カ発電所と甲信幹線,早一を始めとする田代・早川系発電所と田代幹線,それに大同電力の天竜東幹線などが出資対象となり,これらを運営するため,日本発送電桂川電力所と早川電力所が発足した。次いで一般供給の電気事業においても昭和16年,国家総動員法にもとづく配電統制令が発布された。こうして全国ほとんど全部の電気事業が統合され,北海道,東北,関東,中部,北陸,関西,中国,四国,九州の各地域別に新たに9配電会社が設立されることとなった。山梨県下の電気事業においては,東京電灯と甲府電カが受命会社として対等合併し,ここに関東配電株式会社山梨支店が誕生した。さらに9月,宮川電灯,峡西電カ,続いて12月道志電灯をはじめ小会社が関東配電に合併して,ここに山梨県下は全部関東配電の管下に入ることとなり,山梨支店は元甲府電力本社跡(現支店社屋地)に設置された。

都留電灯の株主重役の一人は東京電灯,関東配電と会社が変わる中で,最後は集金人として停年を全うした。時代の流れを感じさせる話である。この時代をふりかえると,電気事業経営に対する強烈な国家統制化の時代であり.事業の活力は奪われ,設備建設補修はままならない戦時下の苦難時代であったと言える。
ただこの時代をわずかに彩る山梨電気事業のトピックスとしては,昭和12年から始まる富士川の電源開発であろう。静岡県蒲原に立地した日本軽金属(東京電灯と古河電工の合資会社)は,国策会社としてアルミ生産を行ったが,その重要原料として富士川の水カ電気を開発して便用したのである。現在にのこる波木井発電所(19,900KW)以下4ケ所の日本軽金属自家用発電所がそれで,これは代議士田辺七六の地域での活躍が大きく功奏した。

8 新たなる東京電力発足
 電力再編成
昭和20年8月,太平洋戦争は.日本の敗戦をもって終止符がうたれ,同27年4月講和条約が発効するまで、わが国は連合軍総司今部(GHQ)の統治下におかれた。GHQの「非軍事化と民主化」を基本とした占領政策が矢継ぎ早に実行され,電気事業対しても国家管埋は明確な戦争遂行手段であるとして,電カの再縮成が指令された。以隆,電力再編成計画案をめぐって政財界や言論界で賛否両論が交錯し,3年にわたって議論が続いたが,昭和25年11月,ポツダム政令交付によって発送配電一貫の私企業9電力への分割再編が決定し,実施に移されることとなった。ここ迄に至るには,公益事業委員長代埋松永安左ヱ門の思想と努カとによるところが大きかった。

 東京電カ山梨支店の誕生
昭和26年5月1日,全国を北梅道,東北,関東,中部,北陸,関西,中国,四国,九州の各地域別に,自主責任体制のもとで発送配電を一貫経営する現在の9電カ会社が発足し,国家管理によって一時中断されていたかに見えた私企業体制を再びとりもどし,ここに新たな東京電カが誕生した。

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