「超早期教育を中心にとらえた現代的教育の諸問題」
文責 河西 修 参考文献 それぞれの章に記載
1 学校化社会の出現 (山梨大学授業のノートより)
ナイフの事件や神戸のあの事件。あれだけ大きな事件が起こったのに、今の私はそのことを平静に受け止めている。人間の心とは本当に不思議なものだ。
ある親がある先生に教育についての相談をもちかけたそうだ。その親は1歳7ヶ月のこどもがあり、この子どもをいじめっ子にするにはどうしたら良いでしょうかといったものだったらしい親はこの子がいじめられるのを見て、喧嘩を自分たちで再現し、更に喧嘩やいじめに対してはこのように反論・行動しなくてはいけないということを演じてみせたそうだ。当然、こんな事がこの年の子どもに理解できようもない。しかし、親は真剣なのである。親の心は、何か子供にしてあげなくてはいけないと考えている。内容はともあれこの親は子どもに対して必死であることだけは確かであろう。
余談であるが、高等な動物ほど飼育されると自立できなくなるそうだ。飼育されたチンパンジーは、子育ての方法を知らないという報告を最近は子どものテレビ番組でも放送している。さて、このことに無理矢理当てはめると、今回の親は飼育されたチンパンジーなのかと思われる節がある。学校という価値観のみを重視する今の世の中で、いつの間にか親は、子供を飼育し自立させる技を失っているのかもしれない。
子供は子供で実に大変な時代である。今まで子供は親の生活水準を超えるため、勉強に励んできた。そしてそれが実現した。実は、親たちが手にしたものは経済成長という構造に支えられたものに他ならなかったのだ。しかし、バブルは崩壊し現在の子供は努力しても親のレベルを維持することさえ難しい社会状態なったのである。
ここに興味ある報告がある。それは、子供に対する満足度の報告である。日本の場合3歳までは70%の親が自分の子供に満足しているそうだ。しかし10歳から12歳にもなると40%以下へとその満足度は大きく下降してしまうという。ちなみに、諸外国(イギリス、アメリカ)は少なくとも10歳から12歳までの子供に対して80%を大きく上回る数値で満足をしている。最近の日本の親の様子は子供を虐待する親、もういいですと子育てを放棄する親等々、パニックに陥り、ストレスを子育てに感じる実態が浮き彫りになっている。
親だけではない、実際には日本と日本の教育は信じられないほどの大きな変化をとげた。1950年代には、高校への進学率は50%未満であった。しかし、現在は97%以上が高校に進学し、高校への進学は常識であり、それ以外のこと(就職)は言葉には出さないが世間体が悪いこと(平均的ではなく、恥ずかしいこと)と考えられることとなった。頑張れば良い学校に行ける。それが良い未来につながる。誰もがこのことを信じた。
実は、今の教育システムが変わらなければ現在の1歳の子供の80%以上が、大学に進学できる計算となる。それほど大学の定員と子供たちの数は接近しているのだ。いよいよ
現在の高校進学の状況そのものが大学進学の状況になる。こうなると、今の価値感では良い未来の方程式は全く語れないことが凡人の私でもわかる。更に、このままだと30歳位まで子供は働かずに勉強し、親は70歳位まで子供を育てるという恐怖の構図(自分としては)も考えられるのではないだろうか。
社会は、大学に自分の子供を送り出すこと、それが親の最大の目的であり幸せへの近道であると信じている人が本当に多い。特に、ここ10年ぐらいの間に子どもを大学に送りだした親はほとんどこの神話を信じている。しかし、実態はひどい。何の実態かというと、大学における学生の意識の低さである。授業中携帯電話をかける生徒、汗水流しながら講義をしている先生の前でペットボトルを目の前に置きリラックスをきめめこみながら授業を受ける生徒。いや、まだ授業を受けようとしている生徒はましかもしれない。これ以上言うと悲しくなるのでこのひどさの現状はここではこれ以上語らない。それにしても、誰でもいける大学に、向上心なくして遊びに来る日本の学生が増える一方であることを理解ある大人は知り、問題視していかねばならないところであろう。
社会の構造は昔と大きく変化した。学校がない時代、家庭と地域は労働という目標のため子供をしつけた。学校が成立し、産業が発達してくると読み書きそろばん等の価値が家庭と地域に加わった。二者の関係に学校が加わったのである。しかし、それでもこの三者の関係は成立した。
現在この三者の関係の地域が消えた。これはさんまの消失といわれる。空間、時間、仲間が無くなったのである。子供たちはスケジュール帳を見ながら行動する。**チャンあそぼ!!などということは、子供たちの会話には存在しないのである。スケジュールをみて、今日は何時に塾に行かなくては・・・などの動きをし、仲間は自然に消滅する。そしてかりにできた仲間は、希薄な関係で冷戦状態そのものなのである。
三者の関係がなくなり、残った二者の関係は、学校という価値観が家庭を飲み込み、学校化社会を作り上げた。今や、親が親らしい行動をし満足感を得るのは子供の宿題を見るときぐらいである。子供の出来不出来で親は一喜一憂するのである。
75年以後この二者の関係に、大きな変化が現れた。それは、情報の登場である。情報とは、テレビであり、ビデオであり、ゲームである。人間の意志ではコントロールできないメッセージの流入は、親と地域から受け入れていた情報の変わりに子供たちに受け入れ始められている。
2 超早期教育(山梨大学授業のノートかから)
時代とともに教師への信頼感も大きく変わった。今や、勉強ができない事に対しては、親が子供をどんどん守る事を行い、教師に頼ることはなくなった。親のこの意識の多様化がどうも子どもを変にさせているのではないだろうか。
1985年、日本は超早期教育時代に入った。そして、当たり前のようにテレビやビデオを使う。ビデオは、好きな内容を、好きな時間帯に好きなだけ見ることができるのである。そして、2歳児はビデオ漬けになっている。親は、これなら一人でもいいだろうと思いこみ、そのことが当たり前になりつつある。機械が人間を教える。親たちの関わり抜きに機械は、子育てを行っているとも言えるのである。ビデオ、スイミング、塾、しまじろう、親はこのような形で子育てを行い、満足感を得ている。
60年代、コンピュータの開発に企業は躍起になり、この技術を子どもの教育に生かす実践が行われ始めた。85年、多くの人がこの実践に飛びつき、今や700万人いる子どもの140万人以上は、しまじろうと一緒に勉強し、40万人以上が公文のプリントを行っている。ビデオ、スイミング、塾、しまじろう・・・・多くの業界が成長にあえいでいる中、幼児教育産業だけは、鰻登りの成長を遂げている。
これは、知って於いてもらいたいことであるが、2歳から3歳までの子どもは特にすばらしい能力を持つ。実はこの年の子はやればできてしまうと言うのが結論だ。一日200問の問題学習もこの時期に行われている日本語の学習(この一年間で普通どの子どもも日本語を話し出す。)に比べたら、簡単なものです。我々大人はもう何年も英語を勉強しているはずなのに満足に英語を話すことができていない。しかし、この時期の子は、なんと1年で難解な日本語を話すようになるのである。
親は、子どもの指出す方向のものを、お花ですよとか、わんわんいるねとか言ってバラバラな情報を与えています。実はこの年の子どもはこのバラバラな知識を知識の集合体としてまとめ上げる能力に特に優れているのです。実際、ああ・・という子どもの問いにたいして、水ですよと答える代わりにウオータですよ。とでもいえばすぐに子どもは覚えてくれるのが普通なのである。個人的に私が最初に習った、英語でTHIS IS A PENなる文章があった。しかしこんな英語は実際使わないことは当時の教師も知っていたはずなのに・・・。
1歳半から2歳において、自我がでてくる。このとき、うちでは子どもは自由ですから、などという論理で子どもを自由にするとわがままな子どもになる。逆に自我が芽生え始めているこのときに頭ごなしに怒鳴りつけると、自分を表現できない子どもになる。更に具体的に説明しよう。ここに人参を料理したものがあるとしよう。「好きにしなさい」と親がめんどくさがりこの問題を放任すると、食べれば苦い人参には当たり前のように目もくれなくなる。逆に食べなさい!と強要すると子どもは自分の自我とは関係なくそれを受け入れる習慣が身に付く。ただし、これは親の前だけであり、社会という和の中で全く解決になっていない。
「お母さんの願いを聞き入れてあげようかな」という、こうした子どもの自我との葛藤。ゆっくりとした大人への関わりが、こどもに心地よさを生み、知性としての自我、社会的な自我がうまれてくるのである。
3歳から4歳にはこんな事がある。私の息子もそうなのであるが、「パパ。お外から帰ったら手をしっかり洗いなさい。」などと言う。しかし、この時期の子どもは言葉としていえはしても、自分を見ることはできないのである。この、子どものこうあるべきだという自我をゆっくり育てて行くと、自然に小学校に行けば、目標に向かって自分から努力する子どもにもなろうと予想できるのであるが。
小学校では自己中心的な子どもが非常に増えた。ごく限られた、小さな集団で、学校的価値のみを、ほとんどの場合は親とのみ共存してきた子どもがほとんどである。そしてこのような子どもは、クラスで先生に、友人に、このような価値でのみつき合おうとするのである。僕だけを見て!!このような要求に40人もの生徒を見ている先生が答えることができようもない。更に、親は教師を実は全く頼りにしない状況で子どもを守り、落ち込む。
ある塾の中で親が言う。「塾の先生の接し方が参考になるんですよ」。今の親は、しつけから、話し方から、第三者から教わらねば安心できないらしい。自分のやり方が、教育的価値のなかでのみ有効であるとわかっている親も多いはずなのに。業者もいう。5.6歳で偏差値を出すことがいったい何の意味があるのかわからないが、他社に負けない為には、親の要求、欲求を満たさねばならない。
3 超早期教育に対する社会動向
社会がどのようにこの早期教育をとらえているか興味がありインターネットで調べてみた。そこには約1000もの早期教育のサイトがあり関心の高さを伺うことができた。感心したのはほとんどのサイトが、早期教育の必然性を問題視しており、若い親の質問に真摯に答えていることである。以下の二例はそのような疑問に対するサイト管理者の答えを抜粋したものである。
<意見1> 超早期英語教育への期待
3歳に満たない女の子が、昨年、英語検定試験5級(中1レベル)に合格しました。「遊びながら英単語を教えているうちに、どんどん覚えてしまったんです。試験を受けさせてみたら、受かってしまいました。」とテレビインタビューに応えるお母さん。これも個人の自由なんだというおせっかい心を抑えながら、それにしても、試験合格や記録達成だけを、この子のこれからの語学教育の目標にしてほしくないものだと思って見ていました。人は、周りとコミュニケーションを図るために、ことばを身につけます。「この人、なんて言っているんだろう?」という好奇心から出発して、ことばを理解できるようになったり、自分の意思を相手に伝えたいという欲求をバネに、ことばを使えるようになったりします。超早期教育の中で騒がれている「英語」は、今のところ、これとは出発点が少し異なっているようです。
「わが子には、英語で苦労させたくない。」
「英語くらい自由に話せるようにしてやりたい。」
「国際的な視野をもった人になってほしい。」・・
親たちのそんな思いを巧妙にくすぐる英語ビジネスの存在。超早期教育ブームを沸き立たせるマスコミの驚異的な力。親が子の将来を思うのであればこそ、一時的な風潮や流行に左右されることなく、その子が、子ども時代の一時にしかできない、身につかないことは何かを、まず見直してほしいものです。脳にインプットされた単語数や、文法知識の量だけが、「英語を話せる」ことを意味するのではありません。ネイティブスピーカーの音を聞き取れることや、ネイティブのように発音できることだけで、人と通じ合えるわけでもありません。
ことばの背景にある文化、習慣、思考などを、ことばと一緒に受け止め、理解してこそ、そのことばを本当に使えるようになるのだと思います。もし、幼い頃から英語教育に取り組ませたいのであれば、子どもの優れた認識能力や記憶力を活用することばかりに熱中するのではなく、コミュニケーションの「素地」づくりを第一の目標としてほしいものです。年齢が低ければ低いほど、ことばや肌の色の違い、国籍の違いを乗り越えられる「芽」を育む絶好のチャンスです。世界には、いろいろなことばや文化があり、その中には優劣も上下もないのだということを、自然に受け止められる「うつわ」づくりも、心が柔らかい内が最適なのです。
こうした土台さえ持っていれば、本人が外国語習得の必要性を本当に実感してから、たとえ高校生や大学生、ましてや社会人になってからでも、英語習得は決して手遅れになんかならないのです。幼い子どもたちに、どれだけ早く単語を覚えたとか、どんな英文がスラスラきれいに言えるかだけを求めてほしくありません。英語であろうと、日本語であろうと、何語であろうと、相手を知ることの喜びや、心がかよい合うことの楽しさを、たくさん体験させてあげたいものです。
日本にも、世界にも、いろんな人たちがいることに関心を持つ。相手を理解しようとする力を築く。お互いの違いを尊重しようとする心を養う。英語教育は、幅広い世界への扉を開く、第一歩であってほしいと願います。
<意見2> 私は子どもには早期教育が必要だ
主人は元気に遊んでいればよいと言うので焦ってしまいます。
2歳で能力が決まるとも聞きますが、どうしたらよいでしょうか。
(子供:8カ月)
上記に対し・・・カウンセラーの回答
「早期教育」と呼ばれているなかには、ピアノやスイミングなどおけいこごと、いわゆる受験のための”お勉強”
あるいは知的能力開発など種類もたくさんありますね。特に最近は、育児の”安心材料”として、専門家がみてくださる知能開発を主とした幼児教育にひかれるお母さんも多く、
「自分一人の教育では不十分なのでは」と、子どもを3つも4つも教室に通わせているかたもいます。
そうした早期教育は、主に知育教育と情操教育に分けられますが、もし「知育」の面で心配されているならそんなに急ぐことはありません。詰め込みや先取り教育で安心するのはお母さんだけで、本当にそれが子どもにとってよいことかどうか、はなはだ疑問です。
「早期教育」は新しい分野で、 人間形成全般に対する影響に関しての詳細な報告は出ていませんが、「早期教育」を受けた子が、本当の意味で優秀かというと、必ずしもそうではないようです。こんな調査結果もありますよ。3歳でひらがながすべて読める子どものうち、遊び感覚でいつの間にか覚えてしまった子と意識的に教えられて覚えた子では、「探索意欲」「友達志向」「状況把握」など、自発性や社会性に関し、前者の方が明らかに高いという、はっきりとした差が出たというものです。
(『このままでいいのか超早期教育』大月書店より)
あまり幼いうちからの詰め込み教育は、 逆に害がある恐れもありますので気をつけてください。ある大手出版社が、育児雑誌などで「子どもの能力は2歳までに決まる」と親の不安感をあおるうたい文句で、
盛んに幼児向け早期教育のカリキュラムを売り出しています。これなどは、全く何の根拠もありません。
焦ることはありませんよ。
以上、典型的な例を転載した。じっくり読んでいくと、どのサイトも早期教育に関して何らかの疑問を投げかけていることがわかった。
しかし、大手の企業は少子化に対する危機感から早期教育に次々に参入している。今や幼児の間で人気者の「しまじろう」はその典型である。会員数はここ数年急増し、今年4月には139万人に達しているそうだ。実に日本の1−6歳児の約5人に1人の割合がしまじろうとともに学習している。頭打ち状態の小、中、高校生会員数を抜いて、今では幼児会員が同社の全通信講座会員のトップを占め、全体の約3割に達しているそうだ。
一世帯当たりの子供の数が減ると、親が子供一人にかける教育費は当然多くなる。全体として少子化が進めば、企業は、早期段階で顧客の囲い込みを始める。幼児のころから親や大人(企業)から「接待」を受け続ける子ども達はいったいどのように育つのだろうかか。“与えない”教育は望めないものなのだろうか。
4 そして受験勉強がはじまり子どもを歪める(以下 岩波講現代の教育を参考にしました。)
早期教育をなぜ行うことに親は走ってしまうのか。それは日本の教育が本人の個性とはまったく関係なく徹底した年齢主義をとっておこなっているからである。どのような個性の違いが存在しようと幼稚園から中学まで、そしてほとんどは高校まで同じ年の子と一緒に生活することを基本にしているからである。そして待ちかまえているのは、共通した一斉授業。勉強の遅れはその共通性からの逸脱となる。若い親にとってこのことがもっとも恐れることなのだ。小さい頃から、親の夢を一心に背負い込み、きれいな服で身をまとい、理想を追求している我が子が、他人の子どもと比較されるだろう内容で劣るわけには行かないのである。早く勉強させれば、きっとこの競争に勝てるだろう。受験を経験してきた若い親たちは考え行動している。そして、いつの間にか勉強の目標は受験を勝ち抜くことに結論づけられていく。今日の子どもの勉強とははっきり言ってしまえば受験を勝ち抜くための勉強なのである。
現に何のために勉強するのかのアンケートを実施したとき、理由は進学のとき必要だから(試験に必要)が90%以上を占めた。(わたしの担任したクラス3年2組)受験勉強は私の経験からいっても大変な時間とストレスを伴うものだ。私の勤務する中学では60%以上の子どもが通常の授業の後平均2時間の進学塾に通っていた。中には、学校の授業よりも大きく先行することを目標にする塾もあり、学校の授業は復習のような顔をしてボーッと聞いている生徒も多い。
塾だけの影響とは言わないが、子ども達はどのような過程を経てそのような結果が導かれるということより、結果や法則を知りたがる。つまり、試験の答えが知ることができたらそれで良いのだ。この考えは親も同じである。学校で行われる学力試験は業者試験を採用していたが、一部学習塾がこの業者テストを入手し子ども達にこれが出るからとやらせた事実により山梨県の中学校ではこの業者試験が廃止に追い込まれた。おかげさまで、妻はこの夏休みに校内学力テストをコツコツと作ることになり、夫婦の会話は更に少なくなった。冗談はさておき、得点さえとればよいという受験勉強により、子どもが歪められていると思うのは下記のような思考が失われているからである。
まず、思考の持続性である。もともと受験問題を解くのに長時間の思考を行うことは負けを意味する。短時間で正解を編み出すことが受験の思考なのである。しかし、本来、学ぶこと自体時間のかかるものであり、探求は無限とも思える時間を要するものである。正解など出ないことが普通なのだ。(社会では)。受験のための分断された思考は分断された場面の焦点化だけで終わってしまう。世の中の流れなどもちろん全く関係ない。そして、親はこのことに対して無関心であり、関心は偏差値である。
次に思考の共通性である。受験勉強は自分がわかり、相手がわからなければ勝利を得ることができる。つまり、普通人間は、得られた知識を他人に話したり、紹介したがるはずなのに、ひたすら隠すという現実が存在してくる。得られた知識は試験の中でしか役に立たないものとなる。たとへわかったことがあっても得点を稼ぐだけの手段となりわかることへの感動は得られない。つまり、日本人は何か発明されたとき、新しい考えを先を越されてしまったとき、それは負けとなり、既存の知識となってしまうのだ。それが深ければ、単純にまねを繰り返す、写すということを繰り返すのである。
次に受験勉強はわかることが重要であり、できなくてもよいという事実である。特に共通一次試験が証明しているように、知識は断片であり、全体を理解する必要はないのである。更に、実際それが真実かどうかは、確かめる必要はないし自分で行動する必要性もない。参考書や歴史書にかいてあることを事実として鵜呑みにして覚えること、まとめることこそが勝利の方程式である。受験勉強にとってわざわざ探求する時間は単なる無駄なのである。体で感じることなく、ただ増える知識は新しいことを自分で探求する力を失わせるのである。
親が子供に対してあきらめるのは高校受験の進路選択をするときだ。決して結果が出たときではない。親はいう。「私の子どもは学力で250点です。これで行ける学校はどこですか」と。親が満足できる進路とは親の価値観と同様の学校または価値観を超える学校であり、実はこれが親の価値観なのである。現在100%に近い生徒が進学する。なにをするための学力ではなく、どこの学校を受ける資格をもらえるかの学力であることを親は知っているのである。早期教育からの集大成が受験であるのだ。親も子もこの受験に勝つことだけに協力しあっているといってよいのだ。人間的な心の通い合いや道徳、技術など現在の子と親には必要のない無駄な知識なのである。
5 現代の豊かさから発生する教育問題
今の世の中に不足しているモノはと聞かれると私は「少しの欠乏」が不足していると答える。どこの家でも、食物・衣類・玩具のいずれも、豊かなモノであふれかえっている。子どもはお腹がすいていないので、好き嫌いをいって食べないで親を困らせる。子どもの好奇心をくすぐる玩具が次々と売り出され、宣伝される。子どもは次々と新しい玩具を欲しがり、親や祖父母たちは、買えるお金を持っているので、子どもの際限のない欲望を抑え切れない。今の子どもたちは親たちが買えることを知っているので、要求し続ける。子どもの成長には少しの「欠乏」が重要なのだが、現代生活の中で少しの「欠乏」を子どもに与えるのは、親にとってとても骨の析れる課題になってしまった。
「甘やかし」でなく、子どもを「受容」することの難しさ。「小言」でなく、「叱る」ことの難しさ。今日では、しつけは親の存在がかかる大仕事である。放っておいても自然に「欠乏」があり、子どもが育ってくれた時代と比べて、子育ちのための「欠乏」を作り出さねばならない現代は、なんと困難なことだろう。だが、このことに気づいている親はどのくらいいるのだろうか。
次に、「子どもの家事」が消失した。子どもは仲間遊びや適切な仕事を通して、心と社会性が育っていく。家事の商品化以前では、家庭の中に必ず子どもの仕事があった。道路掃除や風呂焚き、子守など。子どもは、自分の仕事を責任を持って遂行することを通じて生きる力を身につけ、自信を持っていったのである。しかし、次第に「子どもの家事」が単なる「お手伝い」に変化し、ついには「お手伝い」が「お勉強」に置き換えられた。
さらに、安心して子どもに「冒険」させられる空間も縮小している。交通事情が変化し、道路では車が危なくて遊ばせられなくなった。地域を流れる小川はコンクリートで固められ、ザリガニをとったり水遊びしたりできなくなった。出人り自由な空き地も少なくなり、子どもが群れる場は、整備された公園へと移ってきた。自由に登れる大木が姿を消したので、アスレチック公園が必要になった。そして、「安全のため」子どもは四六時中母親に管埋されるようになる。このように、かつては親が放置していても、「欠乏」「子どもの家事」「冒険する空間」といった、子どもが鍛えられる生活環境が存在した。しかし、現代では大人がそれらを意識的に与えなければ、子どもは歯ごたえのない生活に陥ってしまう。成人病と同じような構図があるように思われる。
6 教育目標の歪曲と達成水準のべらぼうな上昇
現在子育ては、母親の達成すべき「業績」ヘと変貌した。母親は、子育てのために自分自身の生きがいを断念し、子育てにのめり込む。そうなると、子どもはマイペースで育つことが許されない。常に、せき立てられる。そして、母親自身の人生の意味をも背負わされ、代理競争させられるということも起こりうる。
子どもは、成長の過程で自分らしさを発見し、自分の人生を切り開いていくものであろう。親はそのような「子育て」の支援者であったはずだった。しかし、いつのまにか「子どものために」良かれと思う目標を設定してやり、それに向かって子どもを駆り立てるコーチになってしまった。現代の良い子とは、親の期待通りに走る選手のようだ。
しかし、ありのままの自分を親に受容してもらえない子どもは、つらい。何か問題を起こす子どもは、大抵自分を認めてもらいたいのである。今日、健常児に課せられる達成水準はべらぼうに高い。スポーツや音楽も含めて総ての教科がこなせなければならない上に、友達も沢山作らねばならないし、明るく元気で個性的であれと期待される。しかし子どもは、仮に成績が平均以下で友達が少なくても、ありのままの自分を丸ごと受容してもらえて、はじめて安心して成長できるのである。
7 未だ変わらぬ40人学級と学級崩壊
今年の4月娘が小学校に進学した。実は娘のクラスの人数は40人である。40名という生徒に一人の教師という典型的な日本の教室での授業は、秩序の維持こそ授業を進めていく上で欠かすことができない条件であるといえる。そして現在に至るまで、どんなに解放された授業でもこの秩序は守られていたはずであった。
ところが最近の学校、特に小学校において担任に対する反抗、私語、たち歩きがこうじ授業が成立しないことが多く報じられている。
実際問題、子供たちに学校の教師はいい顔ばかりしてはいられない、時にはその行動を戒めるためにも注意をする。これが現実なのだ。しかし、ちょっとした注意でも「うるせえ」「くそばば!」といった暴言が返ってくることがある。教師の忍耐と努力により以前はこのような人間関係も多くはプラスの傾向に向かった事例を多く知っている。しかし、今日その努力の甲斐なくいっそう傷つき、自信を失う教員の例をたくさん見る。
以前は、教師の熱意さえあればそれに比例してクラスは良くなったものだ。しかし、現在の状態は、熱意や経験だけではこの荒れを必ずしも防ぐことはできない。日本の学校は明治のはじめから一斉授業方式を取り入れてきた。学級の全員が同じ教科書を使い、同じ内容を勉強する。この伝統的なスタイルは学習を効率的に進めることができ、日本は諸外国には例がない驚異的な成長を遂げた根元といえる。この点から言うと戦後教育は成功したといえるかもしれない。現に今でも外国には例がない40人学級を未だ維持している学校がほとんどである現実は、過去の栄光を信じる人々が未だ多い(このようなことが大きな問題にならないことからして)ことを示している。
しかし、学級崩壊によってこの伝統的なスタイルは崩壊している。しかし、この現実と行政のギャップは狭間にある教師をつるし上げ苦しめていく。学校の会議では、我々の力不足を前提にしつつも、家庭のしつけが不十分であること、子供が自己中心的になっていること、小さい頃から自由や自主性を尊重するあまり自制心が育っていないこと、また親はいつの間にか子供に何も言えなくなっていることなど、教師だけでは解決がつかない原因を多くあげる。更にゲームやコンピュータに慣れ親しんだ子供に、ありきたりの授業は通用しない。ある意味ではこの崩壊現象が彼らにとってつまらない授業がどれだけ展開されているかという証拠にもなるのかもしれない。子供がひたすら座りながら聞く学習スタイルはいずれにせよ限界である。
8 今再認識させるマリア・モンテッソーリの子供観
・参考文献 子どもの何を知るべきか 鈴木弘美訳 エンデルレ書店
「子供の受難」から
子供は、物事がよくできたときに喜ぶ。
子供は、着手した仕事に最大限の努力をした時に、心から満足する。
子供は、優れた方法で心身の活動が指令を受けた場合に幸福を感じる。
心身は練習と経験によって強められる。
真の自由の目的は、個人の進歩と幸福に一致する社会と人類への奉仕である。
1948年のモンテッソーリの言葉から引用した。題は子どもの受難。そして今まさにこのことがテーマにされ、新たに教育学者がブームを再燃させている。教育に真理はない。繰り返し失敗し、また繰り返す。これでいいのだろうか。
7 マリア・モンテッソーリの教育思想
・参考文献 モンテッソーリの教育 あすなろ書房から
モンテッソーリの教育思想の中核にあるものは、子どもの内がわからわきでてくる成長を志向する力への信頼である。子どもの精神の中には、その時期において必要とする精神的活動に没入して、自己を太らせていく働きが存在すると考えられている。この信念に立脚して、彼女の教育思想は次のように構成されている。
子どもは、成長へ向けての積極的な精神的生命を持つ。
その生命力にもとづいて自己発展をとげる。
よって教育にたずさわるおとなはのなすべきことは自己発展のカを十分に機能させるよう助成することである。 │
8 まとめ
今日の教育は、どうしてこのように難しいものになってしまったのだろうか。個々の親の身になって言えば、主観的には子どもに良かれと思ってやっているのに、いったい自分の育て方の何が間違っていると言うのか。教師は全力を尽くしているのにどうしてこれほどまでの教育荒廃を招いているのか。早期教育から受験勉強、社会の構図までを本レポートでまとめてみたが、あまりの問題の多さに少々困惑している。
問題は教師なのか、親なのか、子どもなのか、社会なのか。今回はモンテッソーリの教育を引用し子どものための特別な環境と子どもへの接し方を含めてまとめた。豊かな消費生活、愛情から来る教育への熱意、父親はまじめに働き母親は一生懸命に子育てに専念する「よき家庭」は、教育の荒廃とは全く関係がないと今でも思われている。本来一つ一つは悪いはずがないのだ。明治以来の日本の急速な成長はまさしく教育の成果である。そして今や誰でも生活は豊かだと実感できる時代になり、次なる目標を社会も家庭も教育も求め始めはじめだした。原因はまさに、豊かな私たちの生活そのものの中に存在したのである。
最後にモンテッソーリの教育原理を引用してまとめとしよう。いくら子どもが自分の内的生命力に従って成長していくものであるといっても、子どものなすがままに任せかって放題好きにさせておけばよいということはけっしてない。各発達段階には、それぞれ達成されなければならない身体的・精神的課題があるはずで、それがうまく達成されれば次の発達段階へよりスムーズに移行でる。しかも次の発達課題の達成が容易になる。ところが、ある発達課題の達成が不成功に終わると、次の発達段階への移行が困難となり、次の段階での発達課題の達成がますます困難になるのである。子どもの姿を冷静に客観的に観察していれば、生きいきとした表情でそれに取り組み、つかれを知らず、集中してわれを忘れるものと、そうでないものとがあることがわかる。この集中して取り組んでいる遊び、作業こそが、発達段階において子どもが真に求めているものである。豊かな生活に見え隠れする子ども達の心を私たち大人は、正確に見抜き彼らの自由を学びを確保する意味において保証する努力をしなければならないのだ。
外からの強制で学びは開けない。確かに賞罰を伴った外的規制は、子どもの不安と恐怖、あるいは利己心に訴えて有無をいわさず作業に取り組ませるカを持ってはいる。しかし、そこからはけっして内からわきでる喜びを伴った活動は(学びは)でてこない。何をしたいか、今自分がいかなる活動に取り組むことにひかれているかを決定するものは、子ども自身でしかありえない。それをたいせつにするということは、すなわち子どもの自由を保障することであり、今の時代においては親の勇気ある判断なのである。
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