「子供の受難」とは
作者 マリア・モンテッソーリ 1870年生まれ
出典 子どもの何を知るべきか
鈴木弘美訳 エンデルレ書店
今の若者の状態とは
「かわいそうな植物たちは根にしばりつけられている。引きぬいて自由にしてあげよう。」
「ずっと水中にいるよう運命づけられているとは魚もあわれだ。水からとり出して解放してやろう。」みたいなものです・・
まず、この文章を読んだとき、これはいつの時代のことかと疑いたくなります。(私の感想)
これは、モンテッソーリが書いた文章の抜粋です。これは昔話ではありません。
本文から 引用、抜粋
大人は、教育の権利を獲得してきた。しかし、子供にすべての荷を負わせた。よって長い間、教育は子供にとっては受難であった。
そこで、そんなにたくさん教育をする事が必要なのかどうかについて疑いが生じてきた。
教育の量と質を下げればその問題が解決できると考える人々もいた。
子どもたちが過度に精神的に消耗したともいわれた。そのような意見を持った人々は、その当時の教科課程から何を省くことができるか、ということを考えていた。
彼らは大人の観点からそのことを見据えた。
彼らは、「大人の生活では、幾何学は何の役にも立たない。だから、教科課程から幾何学を削除せよ」と主張した。
算数についての彼らの意見は、「買い物をするのに間に合うので十分だ。その他はなくても良いだろう。」というものだった。
「文法が何の役に立つのか。子供だったら文法なしでも話したり書いたりすることがでぎるのではないか。文法を教科課程がらはずしてもよいと断言したりしました。
少しづつ、学校での学習は、知的学習に関しては、何もしていない、
と言っていいほど少なくなりました。
学習は少なく、遊びはたくさんに、ゲームはもっとたくさんに、というのがはやりになりました。
罰は、教師たちをなだめるためにやむを得ず残されました。<しかし、最近はだめです。無知な親ほど罰を必要とし、実際には異常なまでの援助のみがはびこっています。>
義務教育の知的教科が軽滅されると、スポーツとゲームが義務づけられるようになりました。
事実、ボクシングやフットボールが得意な子供たちが、教科の試験に容易に合格させてもらえる、という学校もありました。<今やそのほうがメインだったりします>
学習時間の短縮や教科課程の単純化は、教育を改善しませんでした。
その結果は、知識やしつけ、人格形成に欠如した男女を産み出すばかりでした。
<今の日本そのものですね・・・・>
義務と負担を少なくすれば自由であるという大人の考えは却下されなければなりません。
また、子供は、一日中ないしはそのほとんどを、遊んでいなさいと言われれば喜ぶという考えも却下されなければなりません。
教育は次の事実に基づかなければなりません。
つまり、
子供は、物事がよくできたときに喜ぶということ、
子供は、着手した仕事に最大限の努力をした時に、心から満足するということ、
子供は、優れた方法で心身の活動が指令を受けた場合に幸福を感じること
心身は練習と経験によって強められる、 そして真の自由の目的は、個人の進歩と幸福に一致する社会と人類への奉仕である、
これらが教育の基です。
子供に与えられた自由は、両親と教師からの解放ではない
それは、自然、国家、社会の法則からの免除ではありません。
そうではなくて、社会への奉仕と矛盾しない自己発達と自己実現への最大限の自由です。
子供を仕事から解放したらどうでしょうか。そのような試みは、植物の根をぬき、魚を水から取り出すようなものです。
基本になる現実が理解されるならば、子供の自由は、探求、知識、行為、奉仕の喜びに存在するのだということがわかります。
訓練によって筋肉が強まるにつれて、活動、努力、達成とともに喜びと精神的な力強さが生ずるのです。
今世紀の初め、学校生活が子供たちにもたらした危険と誤りに大人が気づかせられました。
