モンテッソーリ教育についての自己研修
1 現在のイタリアにおける就学前教育の概要
就学前教育は,3歳〜5歳までの子どもを対象に,国立,地方公共団体立及び私立の保育学校で行われる。就学は任意であるが,3歳児〜5歳児までの平均在籍率は91.4%(1991年)に上る。
保育学校では,14〜28名の集団(異年齢の場合もある)が作られ,各集団に2名の教員がつく。家庭の状況に応じて,週5日あるいは6日,1日8時間保育が行われる。
出典 世界の教育から
2 マリア・モンテッソーリの紹介
「子どもの家」の創設
「子どもの家」は、イギリスの産業革命期にオーエンによって創設された、「保育所」の発生に似たものがある。
「子どもの家」はやってくる子ども達の年齢や体の大きさに合うようにデザインされている。ここでは子どもに自分の能力を発展させる機会が与えられる。つまり、道徳性と人格の根本である相互理解、協力、援助ができるように準備されている。
この「子どもの家」が幼児教育史上画期的な「子どもの発見」の場となり、モンテッソーリ法の根幹をなす手段となった。
3 マリア・モンテッソーリの子供観
1)参考文献 子どもの何を知るべきか 鈴木弘美訳 エンデルレ書店
「子供の受難」から
2)本文から抜粋
義務教育は、背後にすばらしい意図が存在している。その目ざすところは、個人、国家、そして人類の進歩であった。
大人は、教育の権利を獲得してきた。しかし、子供にすべての荷を負わせた。よって長い間、教育は子供にとっては受難であった。
そこで、そんなにたくさん教育をする事が必要なのかどうかについて疑いが生じてきた。教育の量と質を下げればその問題が解決できると考える人々もいた。子どもたちが過度に精神的に消耗したともいわれた。そのような意見を持った人々は、その当時の教科課程から何を省くことができるか、ということを考えていた。彼らは大人の観点からそのことを見据えた。彼らは、「大人の生活では、幾何学は何の役にも立たない。だから、教科課程から幾何学を削除せよ」と主張した。算数についての彼らの意見は、「買い物をするのに間に合うので十分だ。その他はなくても良いだろう。」というものだった。「文法が何の役に立つのか。子供だったら文法なしでも話したり書いたりすることがでぎるのではないか。文法を教科課程がらはずしてもよいと断言したりしました。
少しづつ、学校での学習は、知的学習に関しては、何もしていない、と言っていいほど少なくなりました。実際人々は、六才で子供を学校に行かせるのは早すぎる、八才で学校へ行けば必要なものはすべて学ぶことができると確信しました。学習は少なく、遊びはたくさんに、ゲームはもっとたくさんに、というのがはやりになりました。罰は、教師たちをなだめるためにやむを得ず残されました。試験も姿を消したでしょうが、「試験がなかったら子供たちの知識をどうやって知るのですかごという間題がもち上がりました。そこで卒業試験が存続されました。
義務教育の知的教科が軽滅されると、スポーツとゲームが義務づけられるようになりました。事実、ボクシングやフットボールが得意な子供たちが、教科の試験に容易に合格させてもらえる、という学校もありました。他の生徒たちが受けなければならない試験はあまり筒単ではありませんでした。学習時間の短縮や教科課程の単純化は、教育を改善しませんでした。その結果は、知識やしつけ、人格形成に欠如した男女を産み出すばかりでした。
そこで、子供たちの心身を脆弱させることにたいして反乱が起こりました。原点に戻れ、と人々は言いました。これは最後には、ムッソリー二、ヒトラー、および東条のもとに、精神的道
徳的衰退と、肉体的統制と軍事的効率ばかりを重んじる傾向を生じました。これは混迷の状況であって、教育は、そこから未来へ向けて立ち上がらなければなりませんでした。教育が文化への援助をするためには、それは、学校から知識、人格、しつけ、社会的調和、そしてとりわけ自由を取り去ることによって行われることはできません。そこで教育は、重大な問題になりました。
主な問題は、自由の問題です。その意義と影響は、明確に説明されなければなりません。義務と負担を少なくすれば自由であるという大人の考えは却下されなければなりません。また、子供は、一日中ないしはそのほとんどを、遊んでいなさいと言われれば喜ぶという考えも却下されなければなりません。
教育は次の事実に基づかなければなりません。
つまり、子供は、物事がよくできたときに喜ぶということ、
子供は、着手した仕事に最大限の努力をした時に、心から満足するということ、
子供は、優れた方法で心身の活動が指令を受けた場合に幸福を感じること、
心身は練習と経験によって強められること、
そして、真の自由の目的は、個人の進歩と幸福に一致する社会と人類への奉仕である、これらが教育の基です。
子供に与えられた自由は、両親と教師からの解放ではありません。それは、自然、国家、社会の法則からの免除ではありません。そうではなくて、社会への奉仕と矛盾しない自己発達と自己実現への最大限の自由です。庭で木や花などの植物を見たり、海で魚を見たりするならば、生命の自由に心打たれます。我々の自由の理念がいかなる方法にも従わないという自由であるならば、論理的に次のように言ってもよいでしょう。「かわいそうな植物たちは根にしばりつけられている。引きぬいて自由にしてあげよう。」「ずっと水中にいるよう運命づけられているとは魚もあわれだ。水からとり出して解放してやろう。」と。このような、自由を与えるというその行為によってこそ、我々はそれ自体の生命を奪い取っているのだということに気づかなければなりません。少なからず、同様なことが子供にあてはまります。子供を仕事から解放したらどうでしょうか。そのような試みは、植物の根をぬき、魚を水から取り出すようなものです。基本になる現実が理解されるならば、子供の自由は、探求、知識、行為、奉仕の喜びに存在するのだということがわかります。訓練によって筋肉が強まるにつれて、活動、努力、達成とともに喜びと精神的な力強さが生ずるのです。しかし、社会の進歩に対しての子供の受難は現実的な問題です。ある新しい、説得力のある考えを広めるために大人を集会に呼び寄せたとしても、その集会に出席する人はどんなにわずかでしょうか。たとえ集会に出席したとしても、その人々も一時間話しを間聞けば退場します。しかし子供たちにあっては、彼らを教育する人々の管理と指導のもとに、何日も、何か月も、何年も一緒に集められているのです。人類に影響を与えようと願う人々は、子供たちを学校に集め、置いておくことによってそれができると認識しています。その弊害と、無知と無関心による子供の虐待にもかかわらず、この利点は、文明の進歩にたいして主たる役割を果たしてきました。今世紀の初め、学校生活が子供たちにもたらした危険と誤りに大人が気づかせられました。
4 モンテッソーリ教育の教育思想
1)参考文献 モンテッソーリの教育 あすなろ書房から
2)本文
モンテッソーリの教育思想の中核にあるものは、子どもの内がわからわきでてくる成長を志向する力の信頼である。子どもの精神の中には、その時期において必要とする精神的活動に没入して、自己を太らせていく働きが存在すると考えられている。この信念に立脚して、彼女の教育思想は次のように構成されている。
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│ ┌─────────────────────────────┐│
│ │ 子どもは、成長へ向けての積極的な精神的生命を持ち、
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│ │ その生命力にもとづいて自己発展をとげていくものである。
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│ └─────────────────────────────┘│
│ │
│ よって教育にたずさわるおとなはのなすべきことは
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│ │
│ │
│ 自己発展のカを十分に機能させるよう助成することである。
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│ モンテソッリーの教育思想 │
└───────────────────────────── ──┘
ところで、いくら子どもが自分の内的生命力に従って成長していくものであるとはいっても、それは子どもになすがままに任せ、かって放題好きにさせておけばよいということではけっしてない。
この点はハヴィーガーストの「発達課題」の考え方に非常に近いものがある。各発達段階には、それぞれ達成されなければならない身体的・精神的課題があり、それがうまく達成されれば次の発達段階へよりスムーズに移行でき、しかも次の発達課題の達成が容易になる。ところが、ある発達課題の達成が不成功に終わると、次の発達段階への移行が困難となり、次の段階での発達課題の達成がますます困難になるとするものである。
では、その敏感期の存在と最適の活動の与え方は、何を手がかりとしてえられるであろうか。子どもは多様な環境的刺漱にとりまかれて生活しているが、それを意識するとしないとにかかわらず、それらの多様なものの中から何かを選択し、その選択した環境との相互作用の中で成長していく。その場合、子どもの姿を冷静に客観的に観察していれば、生きいきとした表情でそれに取り組み、つかれを知らず、集中してわれを忘れるものと、そうでないものとがあることがわかる。この集中して取り組んでいる遊び、作業こそが、その敏感期にあたるものであり、その発達段階において子どもが真に求めているものである。ここに、おとなは子どもを観察し、子どもから学ばなげればならないことの意味がある。このような、子どもが精神を集中させて作業に取り組んでいるさまを見て、これこそ子どものほんとうの姿であると、モンテッソーリは考え、その現象を「集中現象」と呼んだ。この集中現象という概念も、敏感期という概念と並んで彼女の教育思想の中でたいせつな位置を占めるものである。
では、このような集中現象を起こさせる条件は何であろうか。外からの強制でそれを達成しえないのは自明のことである。賞罰を伴った外的規制は、子どもの不安と恐怖、あるいは利己心に訴えて有無をいわさず作業に取り組ませるカを持ってはいる。しかし、そこからはけっして内からわきでる喜びを伴った活動はでてこない。何をしたいか、今自分がいかなる活動に取り組むことにひかれているかを決定するものは、子ども自身でしかありえない。それをたいせつにするということは、すなわち子どもの自由を保障することである。
この自由の保障ということばの中には、気ままとか放任の意味がまじることを人は心配するかもしれない。しかし、子どもが内的欲求として心の底から求めている活動を認めるという自由の保障は、かって放題にさせるということではないのである。
ここで次のような疑間がでるであろう。そうはいっても、子どもの望むものをそのまま認めてみても、そこから生産的活動はでてこないのではないかと。あるいは、自分も子どもの自由を尊重した教有活動を行なってみたが、そこからでてきたものは、無秩序でしかなかったと。このようなずれがでてくる理由を、彼女は次のように考えるのである。
子どもというものは、本来秩序を求め、成長を願うものである。ところが、それを理解しないおとなが、ただおとなのつごうから子どものそのような活動をおさえてきた。子どもに自由を保障しようとして取り組みながらざせつせざるをえないのは、すでにその対象である子どもがそこなわれてしまっているからだ。これまで自分が求めるものがおさえつけられ、「正常」から逸している子どもが急に自由を保障されたとき、その保障のたしかさをたしかめもするであろうし、あるいはそのような経験がないだけに、その当初は混乱もするであろう。その混乱に遭遇して、教師はすっかり自信を失い、やはり外的強制が必要なのだと考え、もとの指導法に逆もどりしてしまうのである。
ところが、ここで子どもたちが「正常化」の道を歩みはじめるのを忍耐強く待つならば、そこからでてくるものは、秩序を愛し、自己の成長に資する活動に精神を集中させ、生きいきと作業に取り組む子どもであるというのである。このように、自由の保障の中に、子どもの成長へのスタートがみられるとはいっても、さらに子どもの自己発展をより有効に助成しうる環境を構成する問題が忘れられてはならない。自由が真の意味の自由となるためには、自由を実現させ、それを有効なものにする教育的配慮がなければならない。この教育的配慮の具体的姿が、〃子どもの家〃における教具および遊具である。子どもが自由に持ち運びでき、操作できるような小さくて軽い机やいす、自由にだしいれができる低いたななどである。そしてそのいちばん典型的なものが、モンテッソーリ自身の考案による「モンテッソーリ遊具」である。これらの遊具は目的にしたがって大別すれば、筋肉の教育・感覚の教育・ことばの教育の三つのねらいを持つものにわかれ、それぞれが、子どもの発達段階に応じて幅広く活用できるようになっている。その中でも、感覚の教育を目ざしたものは、独創性に富み興味深いものである。
5 モンテッソーリの教師
モンテッソーリ方式についてのもっとも不理解な点は、こどもたちが教師に関してほとんど何も要求せず、教師は妨害しないようにさしひかえて、子どもたちをかれら自身の活動にまかさなければならないとすることです。しかし、教具が考慮にいれられる場合には、その数量や順序や提示物の細かい部分などの点で、教師の仕事は活動的で複雑なものになります。
一般の教師が活動的な場合に、モンテッソーリの教師は活動しないというのではありません。むしろ、わたしたちが述べてきた全活動は、教師の清動的な提示や指導によるものであって、のちになっての〃不活動状態”はその教師の成功のしるしであり、その仕事がうまく達成されたことを表わしているものなのです。次のようにいえる段階にまで自分のクラスを導けた教師はしあわせです。「わたしがいてもいなくても、そのクラスはちやんとやっていきます。そのグループは独立性を達成しているのです」このような成功のしるしに到達するためには、教師の発達のためにたどらなければならない道があります。
普通の教師が、モンテッソーリの教師に変えられることができるのではなくて、教育学的偏見をみずから克服して、新しく生みだされなければならないものです。その第一段階は想像力の自己準備です。なぜなら、モンテッソーリの教師は、まだそこにいない子どもを心の中にありありと思い浮かべなければならず、具体的にいえば、仕事をとおして自分自身を明らかにしていく子どもを信じなければならないからです。さまざまなタイプの逸脱した子どもたちは、このような教師の信念をゆさぶるものではありません。そのような教師は、子どもの独得のタイプを精神的領域の中で見ており、興味を起こさせる仕事にひきつけられた場合に示すこの本質を、確信をもって見つめています。彼女は子どもたちが集中の徴候を示すのを待っているのです。このような仕事に関しては、一つの発達段階があります。
1) 環境の守護者や管理人として、教師は間題児のむずかしさに心を奪われるのではな く、環境から治療できることを知って、それに専心します。ここには、子どもの意志 の方向を統一させるような魅力が存在しています。教具は子どもに新しく見え、完全 でいつでも使えるように、いつもきれいでピカピカしていて手入れが行ぎ届き、欠け ているものがないようにしなければなりません。教師は、その環境の一部として、望 むらくは若くて美しく、人をひきつける服装をし、清潔な感じの香水をつけたりして、 楽しそうでやさしい品位をもって、彼女自身魅力的でなければなりません。これは理 想であって、いつも完全にそのようにできるものではありませんが、子どもたちのま えに現われる教師は、かれらは偉大な人間であり、理解と尊敬はかれらに負うている ことを忘れるべきではありません。教師は、自分の態度をできるだけおとなしく奥ゆ かしいものにするよう研究すべきです。そのような態度に対して、子どもは自分の母 親と同じくらい美しいと考えて、無意識的に教師に敬意をはらうものです。母親は普 通、子どもの理想とする美しさの理想です。
2) 第二段階では、教師はまだ秩序ができていない子どもたちと関係を持たなげればな りません。そのような子どもたちは、目的がなくさまよっている精神を持っており、 それはある仕事に集中するよう、ひきつけられなければならないものです。教師は魅 惑的であることが必要で、子どもの注意をひぎつけるためにどんな方法も−−もちろ んムチ以外の−−利用することがでぎます。彼女は多かれ少なかれ自分が好きなこと をすることがでぎます。なぜなら、今までのところでは、自分の妨害で非常にたいせ つなものを何もめちゃめちゃにはしていませんので、活動力をひきだすような快活な やり方がいちばんたいせつなものだからです。子どもたちがほかの者に妨害をし続け ようとする場合には、やめさせなげればなりません。そのような活動は、サイクルを 完成させるのに必要な自然の活動ではありません。
3) 子どもの興味は普通、教具はまだそれを提示するのに適切な条件を備えていません ので、実際生活のなんらかの練習からでてくるものですが、ひとたび子どもの興味が 起こってくれば、教師は背景にひきさがり、どうなっても完全に介入しないよう細心 の注意をはらわなければなりません。ところが、ここでよくまちがいが起こります。 たとえば、これまで行儀が悪かった子どもが、やっと何かの仕事に集中している場合 に、通りすがりに「よろしい」と勇気づけることばをつぶやいたりしますoそのよう な善意からでた賞賛が、害を与えることがじゆうぶん考えられますoその子どもは何 週間にもわたって、再び仕事に見向きもしないかもしれません。さらに、子どもが何 か困っている場合に、その困難の解決のしかたを教師はかれに教えてやってはいけま せん。そんなことをすれば、その子どもは興味を失ってしまいます。なぜなら、かれ にとってたいせつなことは、仕事自体にあるのではなくて、その困難を克服すること にあるからです。自分にとって重すぎるものを持ち上げようとしている子どもが、援 助を求めたりしません。教師が自分を注意して見ていることに気づいただけでも、仕 事をやめてしまうことがよくあります。集中が現われてくるとすぐに、教師はまるで その子どもが存在していないかのように、全然注意をはらってはなりません。少なく とも子どもが教師の注意に全然気づかないようにしなければなりません。たとえふた りの子どもが同じ教具をほしがっても、かれらが教師に助けを求めないかぎり、自分 たちでその間題を解決させるように放っておくべきです。教師の義務は、子どもがま えから与えておいた教具の可能性をあますところなくきわめつくしたときに、新しい 教具を提示することだけです。なんらかの集中した仕事をし終えた子どもは、認めて もらいたくて、それを教師に見せたがるかもしれません。その場合、かれは心からの 惜しみのない賞賛を、当然受けるべきです。
「なんて美しいんでしょう」と教師は、子どもとともにできあがった花を喜ぶのです。モンテッソーリの教師たちは、子どものからだを洗ったり、服を着せたり、食物を与えたりといった子どもの肉体の召使ではありません。独立性を発展させるために、これらのことを自分でする必要があることを、かれらは知っています。わたしたちは、子どもが自分自身で行為し、自分自身で意志を働かせ、自分自身で考えるよう援助しなければなりません。これが精神につかえたいと熱望する者のわざなのです。彼女の信煩に答えて、精神が現われてくるのを歓迦することが教師の喜びです。ここにあるべき姿の子どもがいます。つまり、けっしてつかれを知らない作業者、最大限の努力を傾ける静かな子ども、他者の独立性をどのように尊重するかを知って弱い者を助けようとする子ども、まさに真の子どもの姿がここにあるのです。
わたしたちの教師は、このように幼児期の秘密を洞察しており、子どもの生活の表面的諸事実だけを知るようになっている普通の教師と比べて、はるかにすぐれた知識を持っています。子どもの秘密を知って、彼女は子どもに対して深い愛を持ち、おそらくはじめてどのような愛が本物であるかを理解するのです。それは愛撫によって示されるような個人的愛とは違うレベルのものであって、その相違は子どもたちによってひき起こされるものです。子どもたちは、自分たちの精神の啓示によって、教師を深く動かしており、その存在に気づいていなかったレベルヘと彼女を導くのです。彼女はいまやそこに到達しており、幸福な状態にあります。以前には、彼女の幸福とは、おそらくできるだけ高いサラリーをもらい、しかもとでぎるだけ少しのことしかしないですませられることだったでしょう。そうして、彼女にとっての満足とは、自分のカと影響力を働かせることにあり、希望としては、女校長や女視学官になることだったでしょう。しかし、ここにはなんら真の幸福は存在していません。そうして、子どもが与えてくれるもっと大きな精神的幸福を感じると、ちゅうちょなくそこを完全に去るものです。なぜなら、「そのようなものの中に神の国が存在している」からです。