信玄堤
治水のハイテク技術
富士川は竜王町で甲府盆地にでて竜王町の鼻を扇頂とする扇状地面を流れ下っていく。
一方この富士川が盆地に出るあたりで、巨摩山地より流れ出るみだい川が合流している。このみだい川は巨摩山地を浸食した多量の土砂を運び出しそれを堆積させて扇状地を造っている。
このみだい川扇状地は、白根町築山を扇頂として半径四キロメートルの規模である。このみだい川は、幾度となく災害にあったと記録されている。この川は土砂の流出が多く平安時代の天長二年に大洪水があり巨摩郡はもとより富士川にも押し出して山梨郡にまで及ぶ災害になった。そこで朝廷は勅使を下向させて災害の復旧や事後の処理に当てさせた。このためこの名(御勅使)が名付けられたと伝えられている。
このみだい川の川筋は、信玄堤が築造される当時は現在の白根町有野から八田村と白根町の境を流れ信玄橋の付近で富士川に合流していたと思われる。
このみだい川の運び出した土砂は当時のの合流付近に堆積しその堆積は盆地の中央に向かって前進した。そのため富士川の川道はどうしても盆地の中央に向くことになり、盆地の底面を開発するのには不都合であり、すでに開かれて農耕していたところは災害を受けやすい川道条件を呈していた。
竜王の信玄堤に代表される富士川の治水構想は、みだい川の川道を安定させ、この川の富士川への生涯をなくさせ、この上で本流が盆地中央に氾濫しないように川道を安定させることであった。この治水作は適所適法の河川工事を駆使して総合的な治水効果の上るようになっている。
1 扇頂部の固定
まず川が谷から平地に出る扇状地の扇頂は川が首振りの現象お起こし氾濫しやすいところなので、ここを固定させる。
みだい川では白根町の築山、有野地先であるが、ここにあの巨大な石を積み川道を固定する石積みを築いた。
2 川道の整理と固定
信玄公の時代までは、みだい川は必ずしも主流ではなく派流もあったと考えられる。
それを整理し白根町の有野の下流八田村むじなの上流に分流工を作って二つの川道を作りそれを固定した。
この分流工が将棋頭と呼ばれる施設である。
ちょうど現在の信玄橋付近を流れる川道が当時の主流であったが、これを派流として前みだい川と呼び現在のみだい川となっている川道を本みだい川と呼んだ。
洪水の流量の多くを本みだい川に流すために従来の長い川道も拡張した。ここが掘り切と言われるところで現在は橋が架けられている。
この主川道の付け替えにより、みだい川を流れ下り富士川との合流地点に堆積された土砂によって富士川が甲府盆地に押し出されるという障害はなくなった。
3 富士川との合流調整
川と川の合流を円滑にするということは、治水工法の大きな課題である。みだい川の主流を付け替えて上流へ変えてもこの課題は依然として残った。しかし、信玄公はみだい川の合流をスムースにしつつ、合流後の富士川が持つ治水施設への破壊エネルギーを緩和させ、しかもその富士川が盆地中央に氾濫しない流向にするという三つの課題を一挙に解決するという工法を編み出した。
まず、みだい川と富士川が合流する韮崎市南側に巨大な石を水制として並べ合流の調整を行い、合流した流向が自然の懸がいである高岩に当たるようにしている。
しかも、高岩の上流には遊水池となるエリアをおき流勢の緩和をはかっている。
そして、高岩にあたった流水は川道の中央に流れる工夫が施されている。この巨大な岩による合流調整法が世に「十六岩」といわれるものである。
4 堤の応用と存続
高岩で流勢を削ぎ、流向を川道を中央に向けたとはいえ、天下の急流である、十分な備えがなければ氾濫は逃れられない。
そこで建築されたのが竜王の信玄堤である。
これは雁行堤、?堤という特殊な築堤工法の併用でできている。先ず川の流向を川道の中央に向けるために出しという水勢と堤防を兼ねた土堤を雁行状に、つまり重ねあわせに造りさらにその後ろに、今度は不連続でしかも前の堤防と重ね合わせの堤防を造っている。
前者が雁行堤で後者が?堤である。重ね合わせた堤防が造られているので、前面の堤防状の出しが次々に破損してもその次の堤防が遮水し、それも破れたら次が守るというものである。しかも、万一の氾濫があっても不連続になっている開口部から氾濫水は川道に戻るように工夫してある。
5 堤防を護る工夫
堤防を守るために施す被覆を護岸と言うが、そのために石積や蛇籠を施し竹や木の栽培を行った。
現在でも富士川は石積みを護岸の基本としている。また、蛇籠は流れによる洗堀等によく順応する。当時は竹で編んだ蛇籠であっただろうと思う。
6 水制の工夫と設置
被覆や植栽で護岸しても長い間激流に当てられているとどうしても堤防は浸食により破損しやすくもなる。これらの施設に激流が直接衝撃を及ぼさないように流水を制御し、緩和するために造施されるのが水制と呼ばれる工法である。この水制も富士川には独特なものがある。牛、枠類に分類される水制の中聖牛と呼ばれるものは信玄公の工夫があるとさえ言われている。この聖牛は概ね三角錐をした木材の組立構造物で実に単純な構造であるが、水制として大変な効果があらので聖という字が冠されている。この聖牛を主とする水制工法は全国の急流河川に普及し、信玄川除とか甲州流河除戸言われるに至った。現在でも富士川を始め多くの河川でこの水制法は採用されている。信玄公の治水施設が今日までかなり残っている理由はこういう二重三重の保全施設が組み合わせてあるからである。
7 土砂対策
治水を全うするには水だけに目をとらわれてはならない。河道は水だけでなく、土砂もまた流れて行く通路である。
信玄は山地の乱伐を戒め、流土砂防備のため林を川岸に造林させている。みだい川の砂防備林が日本一ともいえる。