誰のための総合学習
このままだと大人のための総合学習か・・・・・
まあ、普通・・・教師が教えられる範囲の総合学習でしょ!!
本文
総合学習はいわば何でも実施して良いらしい。詳細は省略・・・・・。
しかし、よく考えてみれば、環境、情報、福祉、国際についての命題を掲げる学校が多いのは実に私の不満とするところである。
というのは、この課題は実は大人の課題であって、本当に子供が考え出した課題とは考えられないからである。
どこの子供が、最初からこの命題に取り組むことを考えよう。
レッジョ・エミリアの実践の指導原理から言葉を引用しよう。
Do not cajole a child into participating
in a project that he or she has no interest
in.
「子供達を甘い言葉で丸め込み、彼または彼女を興味のないプロジェクトに参加させたりする事がないようにしてください。」
この言葉からもわかるように私たち教師や大人はこの大人のテーマを当然のように子どもたちに押しつけようとする。
いままでずっとそうだった。総合学習がテーマが自由なのは教師がやりやすいテーマに導くためではない。
子どもたちが自由なテーマをレベルが高い次元で自由に学ぶことである。
様々な年齢の段階で子どもは自然な興味を考慮し、問題を発生してくるはずである。
この段階で日本の親は教師は自然な興味などテレビの影響を受けゲームの影響を受け私たちの期待と大きく異なってきてしまうはずだと疑心暗鬼になる。
どうして、やりもしない段階からそのような考えに落ち着いてしまうのだろう。
学校が従来のような疑似社会的な学習の場ではなくなってきた今日、ルールや公正について子どもたちが最初から興味を持つとはとても思えない。
しかし、現実は学級崩壊だの登校拒否だのいじめだの彼らが真剣に自分の身辺を探ればもしかすると素晴らしい成果が得られるのではと期待することもできる。
今の子供の受難とは実は何であろうか。
政策や経済発展の理由から大人はこどもに期待している。このことは本当に子供にとって幸せなことだろうか。
自己発達の主体として成立していない現代のこどもの受難は、最も先進的である附属の中学校でも文部省の命題をそのまま受け
学力の低下とともに、もしかしたらもう始まっているのかもしれない。
***大学の??先生の文章から抜粋しよう(学習指導要領の変遷と期待される子ども像より)
略
「学校の創意工夫」とか「ゆとりの時間」とかの教育過程の弾力化、「知識偏重」「詰め込み主義の是正」の名における教科内容・授業時数の削減。
道徳、体育、心情、体験活動の重視、「習熟度別学級編成」などが提起されるようになった。
戦後改革期以降、打ち棄てたかに見えた経験主義的観点は再び呼び戻され、個性重視のもとに小学校では生活科が置かれ各教科の指導においても子どもの興味・関心・自主学習、自己教育力などが強調され、戦後新教育の再来を思わせるほどに華やかである。
略
現在の大人社会の高度情報化、高度消費化の動向の中で
自らの自然性をも喪失し生物の主体性の確保さえ危ぶまれている今日の子どもたちにとって、子ども達一人一人自然なリズムを確保し、自己発達の主体の方向を限りなく追求させていくことこそが今後の進むべき道と考えたい。
最後に大人達は少なくとも次の諸点を念頭に置くべきである。
1 子ども達に現れる病理をさらなる適応を促す技術的改善の動因としてみるよりよりも大人の作り出した、社会に対する適応限界の徴表としてとらえること。
2 どのような子ども観に立つにせよ、大人による子どもに対する過剰な支配へと導く危険性があることを意識すること。
3 大人社会の問題を子どもの教育や学習問題に転換してしまうという発想を徹底して再検討すること。
4 大人によって、期待される人間像ではなしに、子どもが自らに期待する人間像に注目しかつ耳を傾けること。