甲斐の黄金村 湯之奥金山

 金山開発

 戦国時代には両国の財源の一つとして鉱山の開発が盛んに行われた。その代表的なものが黒川金山や湯之奥金山である。
 金山の開発運営にあったのは金山衆と呼ばれる武士団で、彼らは間歩(まぶ)=採掘場所を所有し、金子(かなこ)、堀大工(ほりだいく)、堀子(ほりこ)などと呼ばれる技能集団を使って採掘を行っていた。
 当時の採掘方法は人間が一人通れるほどの坑道を掘って鉱脈から鉱石を切り出したものと思われる。その後石臼を使って選鉱した上で精錬したらしい。
 精錬した金の多くは甲府に運ばれ松木、野中、志村、山下らの支配する金座の職人によって貨幣に鋳造された。これを甲州金と言う。この甲州金の純度は高く、良質な金貨であった。この金貨は神社や大名に奉納されたり戦功のあった者に恩賞として使用されたことが記録されている。
 武田氏の繁栄を象徴させる金であったが、信玄の晩年にはその金の算出量も減少したらしい。金山の開発に従事した大久保長安をはじめとする旧武田家臣団の多くは徳川家康に使えて佐渡金山で活躍した。

◆ 湯之奥金山とは
  中山金山、内山金山、茅小屋金山を総称していう。
  中心的な存在は中山金山である。下部町湯之奥金山資料館に展示されているジオラマ(下記参照)もこの中山金山である。中山金山は砂金、柴金、山金と変遷していった日本の産金において、山金採掘の初源的形態を残している。

  武田信玄の時代の採掘技術は、砂金採取技術に近い方法と山金を採掘し精錬する方法が並行して行われていた。

   砂金岡穿工程(絵図 西三川砂金山稼方図より 参考文献 飛渡里安留紀・下巻)
   山金(鉱石)坑道穿工程(奥州南部藩金沢金山 金山絵巻より)

◆ 日本鉱山史と湯ノ川金山
 ・日本の金は奈良時代の天平勝宝元年に陸奥の黄金はざまで砂金が発見されたときに始まる。
 ・奥州藤原氏の平泉中尊寺の内壁をすべて金箔で押した金色堂を建立した。平泉の黄金文化は東洋に伝わり元寇でフビライが日本を攻撃侵略する動機となった。
 ・室町時代の日明貿易では日本の金と中国の銅銭が交換された。
 ・戦国時代武田・上杉・今川・等の戦国大名は競って金・銀山の開発に着手し戦力の強化と武器弾薬の調達の資金とした。中でも武田氏は甲州・信濃・駿河出金山を開発し砂金・山金で甲州金を作った。
 武田氏滅亡の後、織田・豊臣政権は諸国の金山を押さえ次に天下を取った徳川家康は佐渡金山・石見金山を幕府領とし武田家臣であった大久保長安を起用して鉱山技術を改良させ鉱山生産を発展させた。
 佐渡金山・石見金山など江戸幕府の大久保長安による鉱山経営、技術については文献、絵巻伝世道具から具体的な姿が研究されているが、戦国時代から桃山時代の鉱山跡は研究不足であり湯ノ川金山は近世佐渡金山・石見銀山開発の基盤となる金山衆の技術を明らかにでき、中世史研究の上でも大きな意義がある。

◆ 湯之奥金山関連年表

天文10年 1951年 武田晴信は父親である信虎を追放し、甲斐の国の国主となる。
永禄11年 1567年 穴山信君は「中山之郷」(中山金山)に出入りする物資について河内地方(富士川流域)の番所の自由な通行を認める。
元亀2年 1571年正月 武田信玄は北条氏康の属城である駿河深沢城を攻める。このとき中山の金山衆はこれに参加する。
1571年2月13日 武田信玄金山衆10人に、深沢城における戦功に対する褒美として籾150俵を与える。
元亀4年 1573年 武田信玄は病に倒れ、その子勝頼が後をつぐ。
天正10年 1582年 武田勝頼は天目山(今の大和村)で自害する。武田氏滅亡。
天正11年 1583年 穴山勝千代は中山金山衆である河口六口左衛門大将の所有する堀間にかかる諸税を免除。
慶長5年 1600年 関ヶ原の戦い
慶長7年 1602年 富士金山の堀間が16本記録される。中山金山衆分として3本が載る。
駿河代官井出正次、中山金山衆の富士側での採掘を3本に限定する。
慶長8年 1603年 徳川家康は征夷大将軍になり江戸幕府を開く。
慶安3年 1650年 内山金山の間歩の採掘権をめぐり、中山の武兵衛らがあらそう。
寛文5年 1665年 茅小屋・内山金山の間歩が盛る。
貞享3年 1686年 茅小屋、内山金山では金が算出せず、多くの金堀が山を下る。
元禄4年 1691年ごろから 湯之奥村の百姓による開墾が金山の領分に及ぶ。茅小屋の九左衛門、内山の市郎右衛門、不当を代官に訴えるが敗訴する。
中山の金堀りも山を下り、間歩に対してかかる税を常葉村が負担する。
このため、湯之奥・常葉の両村が金山の領有を巡りしばしばあらそう。
正徳3年 1713年 金堀が湯之奥村の「ほうきあら山」で問堀(試堀)を試みるが金や銅は産出せず。
享保元年 1716年 享保の改革が始まる。
享保16年 1731年 江戸の和久屋源左衛門、「ほうきあら山」で問堀を試みるが産出せず。
安永7年 1778年 代官手代安部宗兵衛、湯之奥村の七左衛門らに100日間に及ぶ中山での金の問堀を命じる。

◆ 金山での作業へリンク

作業の流れ 採鉱 粉成 灰吹き ゆりわけ